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株式会社甲斐絹座 代表取締役 前田 市郎
甲斐絹(海気・海黄)とは? 甲斐絹(海気・海黄、かいき)は、元々、元亀(げんき)・天正年間から慶長年間(信長・秀吉・家康の時代)にかけては南蛮渡来の先染の絹織物であった。郡内(現在の山梨県富士北麓東部地域)の甲斐絹が一番隆盛を極めたのは江戸時代の元禄年間から享保・文化文政にかけてで、井原西鶴や近松門左衛門の文章の中に「郡内縞」という表現で度々出てきている。主な用途としては羽織の裏地や布団地などであった。(甲斐絹という言葉は明治の初めに初代官選山梨県令藤村紫朗によって命名された。)その後、明治・大正と昭和初期まで生産されていたが、戦後、化学繊維の発達とともに時代の波間に姿を消してしまった。 (株)甲斐絹座設立の経緯と「甲斐絹グループ」結成による「山梨県産繭」での「生糸」作り 甲斐絹座は、平成14年に株式会社前田源商店、有限会社田辺織物、株式会社槙田商店、 山崎織物株式会社の4社によって立ち上げた同業種のグループである。このグループ結成は、山梨県に訪れる観光客などの方々に当地の地場産業である織物製品を広く周知することにより、ビジネス機会を創出する目的で集まった。ここで、指導関係機関の協力を得て的確なアドバイスの下に3年有余に亘り地道な勉強会を行ってきた。 その経験の中で、現在、我々が織物の仕事をしているのは何故なのかという疑問にぶつかり、甲斐絹の歴史や伝統に加え、それを作ってきた技術の蓄積の上に、今日の織物製品の製造が成り立っていることに気づいた。そこで、現在絶えてしまっている甲斐絹を山梨県産繭を使った生糸で復刻し、現代でも通用する製品を作っていこうというメンバーの考えがまとまった。平成19年度には地域資源活用プログラムに基づく計画策定を提出し、認定業者になった。これにより、製品開発や販路開拓がスピードアップされるとともに、遂に平成21年11月18日付けで株式会社甲斐絹座を設立した。 更に、山梨県産繭を使い生糸を作ることに取りかかった。「蚕糸・絹業提携システム」を構築していくために、甲斐絹座の2名のメンバーをコーディネーターとして登録し、山梨県内の養蚕農家・農協、長野の松澤製糸所、織物業者などで構成される提携グループ「甲斐絹グループ」を結成し、財団法人大日本蚕糸会から平成23年1月19日付けで承認された。 平成23年度の繭生産の実績は14戸の農家で3,072.3kgの繭を生産した。この繭で作った生糸で商品開発を行い、同年度に社団法人日本絹業協会から2品目、24年度第1次審査会で3品目の「純国産絹マーク」の使用許諾を得た。
甲斐絹座の新たなる価値創造への方向性 1)永年に亘って、グループメンバーで研究を重ね、少しずつ様々な種類の甲斐絹を復刻してきた。その結果、先染の特徴が顕著に生かせる玉虫甲斐絹の復刻に取り組み始めた。この玉虫甲斐絹による製品では、「かいき」シリーズとしてネクタイ、クッション、バッグ、傘をはじめとした製品を手掛けてきたが、21年度からはインテリア分野への進出を図るため、新たにプロダクトデザイナーの島村卓実氏を起用し「hengen」というブランド名で玉虫甲斐絹の特徴を十分に活かしたスカーフ・Tシャツ等を開発し、23年1月21日〜25日にフランスのパリで開催された「メゾン・エ・オブジェ展」に出展し好評を博した。
2) 更には、平成24年6月に東京ビックサイトにて開催された「インテリアライフスタイル2012」に出展した。ここで開発した甲斐絹は玉虫の技法をさらに応用発展させ、縞格子や絣なども多用し、複雑な色合いの表現で来場者を魅了できた。
次代の若者たちへの期待 1) 株式会社甲斐絹座では数年前から、山梨県内の大学・高等学校・中学校などでこの地域の地場産業である織物についての話を行っている。そこで感じたことは、今の一般の学生の方々(美大や服飾学校の生徒ではない。)は自分が着ているものが織物なのか、編み物なのか、また、素材にしても、天然繊維なのか合成繊維なのか、分からない方々が多いのには驚いた。大学の場で話をしたことがきっかけになり、21年度より山梨県立大学地域研究交流センターと「地域資源を活かしたビジネス展開の可能性について−甲斐絹の伝承と発信のためのプログラム開発−」というテーマで研究会を立ち上げ、教材としての甲斐絹の使用方法を模索したり、大学生のゼミによる甲斐絹の情報発信や商品開発の研究を行っている。
大島紬の歴史と現状 西暦697年唐の皇帝・武則天(女帝)に献上。これが大島紬の最も古い記録である。大島紬1300年の歴史の根拠であろう。また、1720年には薩摩藩から絹織物着用禁止令が、奄美島民に出され、桑の樹にも課税された歴史があることからも、昔から奄美人は自ら桑を植え蚕を飼い、糸を取り、染め、織っていたに違いない。 現在の大島紬は、明治40年に永江伊江温と言う人が、締機を開発してから絣文様を重視し7マルキ・9マルキ12マルキ等、絣の細かさを追求している。絣の緻密さでは、おそらく世界一の織物であろう。フランスのゴブラン織り、ペルシャ絨緞(じゅうたん)、そして日本の大島紬が世界三大織物と言われる由縁であろう。しかし今大島紬業界は、未曾有の苦況にある。かつて、島の経済を支え基幹産業と言われ、年間約300億円も島外から外貨獲得をしていたが、現在は10億円にも満たない。 島の経済も冷え込み、人口も半減した。大島紬を造っても売れないのである。いやもしかしたら、今までが売れ過ぎていたのかもしれない。戦後奄美だけでも、780万反。鹿児島産地を合わせると約3000万反もの大島紬が生産されており、これが日本国民の箪笥の中に現存しているのである。先日、国の重要無形文化財保持者、博多織り人間国宝の小川規三郎先生と久しぶりに福岡でいっぱい呑みました。小川先生は、本当に気さくな方で、今は、博多織の学校で後輩達に、伝統技術の継承をしておられる。「われわれは商人ではない。工人であり職人である。物売りではない。もの造りの原点を忘れるな!」。重みのある言葉でした。 自らの繭作り 私は兄の勧めもあり、平成22年から桑を植え、23年は愛媛県の愛媛蚕種の兵頭社長の所へ、養蚕修行に行って来ました。蚕のことは、全くの素人で見るも触るも始めてです。その時、琉球多蚕繭(りゅうきゅうたさんけん)と出会ったのです。琉球の名前が付いているので、興味を持ったのですが、よく見ると頭デッカチで、面白い表情(顔)をしているのです。琉球多蚕繭は、奄美・沖縄由来の玉繭品種で、繭は金黄色三頭以上で、同功繭(どうこうけん)を作る。奄美でも、1850年に薩摩より遠島された名越佐源太による「南島雑話」(当時の奄美大島の実情を知ることの出来る貴重な史料)にも、繭色黄ナリと記され、その絵も頭デッカチである。兵頭社長より2000頭の稚蚕を分けて貰い、試験的に飼育し琉球多蚕繭のブサ可愛さを初めて知りました。 秋口になり、自宅から車で約1時間の笠利町楠野と言う所で、桑園を造成し、その畑に友人から古い電柱を譲り受け、大工泣かせの工法で蚕小屋を設置しました。やっと完成し、いよいよ養蚕開始。愛媛蚕種から琉球多蚕繭を1箱20,000頭送ってもらい、兄と10,000頭ずつ飼育する計画とした。これが、23年12月7日着。蚕小屋のある楠野地区は、奄美でも北のはずれ 一番寒い所で、正月も蚕小屋に泊り込みました。成長も遅く生き物をあつかう大変さをしみじみ感じながら、けなげな頭デッカチに愛着を覚え、蚕の餌は桑の葉だけでなく、愛情が必要だと知ったのであります。 やっと、24年1月20日ぐらいに収繭。
夏休み 子どもシルク教室2012 1、 手織り体験 「手織り布の手帳カバーをつくろう!」 ◎日時:平成24年8月 8日(水) 午前の部 10時〜11時30分/午後の部 1時30分〜3時 2、繭クラフト体験 「繭を使ってミニ動物うちわをつくろう!」 ◎日時:平成24年8月10日(金) 午前の部 10時〜11時30分/午後の部 1時30分〜3時 3、染色体験 「ミニトートバッグを染めよう!」 ◎日時:平成24年8月13日(月) 午前の部 10時〜11時30分/午後の部 1時30分〜3時 ※各体験には、事前に電話で予約が必要です。 お申し込み・お問い合わせ先 日本絹の里 〒370ー3511 群馬県高崎市金古町888-1 Tel 027-360-6300
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