群馬県の養蚕もっと知って "繭の輝き"きょうから写真展 東京・小金井市の田中さん (2006/08/08)

出典: 05:農業
【群馬・甘楽富岡】群馬県内で養蚕の写真を撮り続けているアマチュア写真家の田中弘子さんの写真展が8日から13日まで、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館市民ギャラリーで始まる。10年ほど前から地域の近代化に貢献しした養蚕に興味を持ち、県内各地を取材。写真展を開くことで、養蚕の現状を多くの人に知ってもらいたいと意気込む。7月29日にも、富岡製糸場で行われた「第21回ザ・シルクデー」で写真展「繭の輝き」を開き、好評だった。  東京都小金井市在住のアマチュア写真家の田中さんは、父親が同県桐生市内で勤務していた縁もあり、養蚕に興味を持ち1998年から、桐生市、安中市、富岡市、甘楽町など県内各地で取材活動を始めた。  2005年、7年間の取材写真をまとめた写真展「繭の輝き」を東京都のコニカミノルタプラザなどで開催。詳細な取材を基に、蚕から絹へとたどる一連の流れを、美しいひとつの物語として完成させたことが高く評価され、アマチュア写真家最高峰の「第15回林忠彦賞」を受賞した。  田中さんは「甘楽富岡地域の養蚕農家の協力により、養蚕に近代化をもたらした富岡製糸場で、写真展を開けたことはとても感慨深い。若い人たちにも写真展に来てもらい、群馬県の養蚕業の現状を、もっとたくさんの心人に知ってもらいたい」と話す。

国産絹表示を強化 農水省検討会振興策中間とりまとめ (2006/08/08)

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 農水省の蚕糸業のあり方検討会は7日、今後の振興策の中間取りまとめを示した。輸入絹糸に対抗するため、生産者と流通・織物業者が一体となった国産絹製品の生産体制の確立と、原料を含めた純国産製品を区別する表示強化策を盛り込んだ。生産量が減少し続ける国内蚕糸業の生き残りをかけ、国産ブランドの強化を目指す。  振興策では、養蚕農家・蚕糸業と流通・織物業者という「川上と川下」が提携し、消費者ニーズに応えることが「純国産の最大のメリット」(農水省)とし、その体制整備を強調した。  これまで原料供給に徹しがちだった養蚕農家には、積極的な製品作りへの関与を促した。また、特徴ある繭を作る蚕品種や高度な操糸技術の海外流出の注意を提言した。  また、表示も見直す。業界団体の集まる社団法人日本絹業協会が定める現在の「日本の絹」マークは日本で織りかつ染めたことが要件で、原材料の原産地は付加的表示となっている。輸入原料でも国産と誤認する恐れがある。検討会では「純国産絹製品がひと目で識別できるよう区別化し、消費者の本物志向に訴える」と、新たな表示の見直しを決めた。

小学校で養蚕教室 伝統心に刻んで (2006/07/14)

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 岩手県のJAいわて南の職員が先生役になり、小学生に蚕の飼育から機織りまでを教える「養蚕教室」が、今年も一関市の市立弥栄小学校の児童を対象に開かれた。伝統産業の養蚕を「地域の歴史として学んでほしい」とJA職員。地域を支えた養蚕の姿を伝える。  養蚕教室の開講は小学校の要望に応えたもので、数年前から実施してきた。年に数回、飼育から加工までをJA職員が指導している。今年は3年生の11人が受講している。先生役は、JA花泉営農経済センターの村上悟さん(46)と営農部農産課の菊池卓郎さん(54)。2人は、県内で唯一となったJAの飼育場、出荷場や教室などで年間5、6回指導に当たる。加工部門の機織見学ではJA女性部の協力を得ている。  養蚕は同JA管内の主力産業だった。最盛期の1975年前後の繭出荷量は20万キロに追っていた。地域で養蚕が盛んだったことから、弥栄小学校の校章は桑の葉をモチーフにしているほど。しかし昨年度の繭出荷量は6000キロ。養蚕農家も岩手県内で90戸、管内でも14戸と激減している。

繭ぱふ 国産繭で作った化粧用品 実験重ね独自さ紡ぐ (2006/06/26)

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 蚕の繭をほぐし、丸いスポンジのような形にした「繭ぱふ」。洗顔した後、ぬるま湯でぬらし、顔をなでて使う。通信販売から人気商品になり、現在は相手先商標商品(OEM)で化粧用品の有名ブランド店などでも販売している。開発したのは、群馬県富岡市で繭問屋を営む小島篤(53)だ。1993年に(有)繭家(まゆや)を設立し、次々と繭の加工品を生み出してきた。  祖父から続く家業の繭問屋を受け継いだのは、20歳の時だ。当初は午前4時30分から繭の出荷が始まるほど盛況だったが、次第に養蚕農家が高齢化し、数が減っていく。小島は何とかしなければと思うようになった。  加工品開発に取り組んだきっかけは、知り合いにこんにゃくで作ったパフを見せられたことだ。「食べ物をパフにしてしまうなんて」と発想の転換に驚いた。繭でも何か作れないか。そうひらめいたのが原点だった。  それまでは繭といっても、証券取引と似たような感覚で売買していた。素材や成分には関心を払っていなかったが、一念発起して毎日のように前橋市にある県立図書館へ通い、化学成分の勉強をした。分からないことがあれば、専門家に聞きに行く。全国の蚕糸関連の研究者を訪ねて回った。  自宅の倉庫を改造したアトリエで繭を煮る、ほぐすなどの実験を繰り返した。繭の繊維を包んでいるたんぱく質・セリシンに着目し、「繭ぱふ」が完成したのは91年。東京を中心に飛び込みで営業を始めた。「アポイントはありますか」と聞かれ、アポイントの意味が分からず笑われたこともある。面会の約束のことだ。悔しい思いもしたが、あきらめなかった。  あちこちに声を掛け続けた結果、通信販売会社の社長が高く評価。販売にこぎつけた。OEMなので繭家の名前は表に出ないが、生産が追いつかないほどの人気商品になった。当時はまだ珍しかった男性向けファッション誌にも載せたところ、注文が相次いだ。「男が買うのか半信半疑だったが、今もインターネット注文の3割は男性からだ」と笑う。  「誰もやらないもの、まねのできないものを作る」というのがモットーだ。ひと手間、ひとひねりしたものでないと商品化しない。簡単にできてしまうと、逆につまらなくて駄目だと考える。「国産繭100%、手作りでやっている。大手メーカーでもまねできない」と胸を張る。  「富岡の養蚕農家が生き残れるようにしたい」。地域の養蚕を守る運動にも力を入れる。 ここがミソ  国産の蚕の繭だけで作った化粧パフ。水溶性のセリシンを逃がさない製法で加工している。細かな繊維で肌の汚れを落とし、セリシンの保湿効果で肌をしっとりさせる。通信販売、インターネットによる直接販売 にも取り組む。化粧品の有名ブランド店にもOEMで供給している。生産量は原料の繭がどれだけ確保できるかによるが、最低でも年間で10万個。

日本の協同組合の誕生 生糸、茶販売が先駆 政府主導で全国に産組 (2006/05/14)

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 前回は、英国とドイツの協同組合について述べた。今回は日本の協同組合の誕生と展開をみる。 上州南三社が協同組合の祖  徳川期の1858年、通商条約によって海外との貿易が始まり、明治維新を契機として貿易量は急速に拡大した。特に生糸と製茶の輸出が増え、明治10年(77年)代半ばまでの全輸出高に占める生糸の割合は35%、製茶25%と、2つの商品で60%を占めていた。  生糸、茶とも輸出が増えたために価格が高騰。その半面、粗悪品を輸出し、米国市場での評価を大きく下落させ、品質の改良統一の必要性に迫られた。  78年、群馬県碓氷郡に生糸販売組合である碓氷社が創設され、特に品質の向上、規格の統一に力を注いだ。また、社員10人をもって1組とする連合組織として発展した。甘楽社、下仁田社とともに上州南三社と呼ばれ、日本の協同組合の先駆として有名である。  生糸と同様に製茶も品質の向上、貿易の振興などを目的に79年、静岡県小笠郡で益集社が誕生。生産者は製茶全部を組合へ委託し、組合はこれを混合加工して相良港から横浜へ送って輸出した。このように、明治20年(87年)代の前期までの協同組合は、日本の資本主義の成長に応じ、農民などの差し迫った必要によって自然発生的に生まれた。その後の協同組合史と対照的である。  明治前期の先駆的農村協同組合についてみてきたが、協同組合が本格的に設立されるようになるのは、政府によって協同組合の設立が奨励されだしてからである。 農村の疲弊が設立の背景に  明治政府は中央集権体制の確立を進めたが大きな課題は財政基盤の整備・充実だった。政府は73年に地租改正条例を布告し、土地所有者に地価の3%を貨幣で納めさせることにした。地租負担はかつての貢租と同様に重く、また金納だったために農民の多くが地租に苦しめられた。そして、松方デフレ財政などで農家経済は疲弊し、明治10年代の後半には破産する中小農が続出した。  品川弥二郎、平田東助ら政府官僚は、農村がこのまま推移すれば、日本の資本主義の基礎を揺るがしかねないとして、農民の協同団体としての信用組合を設立するため、ドイツのシュルツ系に範をとった信用組合法案を91年に帝国議会に提出。しかし、法案は議会解散で未成立となった。  その後、信用組合だけでは農家の実情にそぐわないという声が大きくなり、97年に信用組合法案に代わってライファイゼン系の産業組合法案が議会に提出された。この時は成立しなかったが、1900年、再度審議されて成立し、ここに日本初の協同組合法である産業組合法が成立した。  産業組合法は、農民をはじめとする小生産者の保護政策として制定された。そのため、行政庁の監督権が強かったという特徴がある。産業組合は日露戦争後に不況対策として進展し、大正期には県連合会、全国連合会が設置され、今日のような系統3段階制となった。  昭和初期には、農業恐慌の下で産組未設置町村の解消、全農家加入を柱とした産組拡充5カ年計画を展開。産業組合に反対する運動に遭遇しながらも大きく躍進した。しかし、昭和10年(35年)代に入ると戦時経済体制の構築が進められ、産業組合の歴史は、例外を除き43年に統制機関として農業会に統合されることにより終息を迎えた。

熊本県菊池市「ふる里の味研究グループ」 桑の実ジャム 機能性、栄養が抜群 (2006/05/11)

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 熊本県菊池市「ふる里の味研究グループ」の中から10人が「桑の実グループ」を結成した。菊池農業改良普及センターなどの協力を得て、加工に取り組み、商品化したのが「桑の実ジャム」だ。  唱歌「赤とんぼ」の一節にあるように、市の水迫地域は、かつて養蚕が盛んで、桑の実は自然のおやつだった。もう一度、桑の実を特産品にしようと、桑の木を挿し木して増殖した。桑の実はブルーベリーのような紫色が特徴。桑の実に含まれるアントシアニン系色素はブルーベリーの約3倍といわれ、抗酸化作用があり、カルシウム、カリウム、鉄分、などの栄養価も高いことが確認されている。

群馬県蚕業試験場 蚕の新品種「又昔×二」育成 古代品種を改良5月県内農家に 大玉で染め上げ上々 (2006/04/13)

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 群馬県蚕業試験場(前橋市)は、全国でかつて盛んに飼われていた在来種の「又昔」と県が選抜した中国系品種を掛け合わせた新しい蚕品種の育成に成功した。県のオリジナル蚕品種としては7つ目。染め上がりの良さなど古代品種の魅力とF1種ならではの収量を兼ねそろえていることが特徴。5月から県内農家に飼育してもらい、品質を見極めていく。  新品種は日本産の「又昔」と県が中国系品種から選抜・育成した「二」の一代交雑種。名前(仮称)は「又昔×二(またむかしかけるに)」。今後、県のオリジナル蚕品種に加える予定だ。  育種のきっかけは、古代品種を使ってこだわった製品づくりをしたいと言う老舗の白生地メーカーからの要望。当初は「又昔」だけを飼育してみたが、繭の重さは通常の半分以下。回転蔟(まぶし)では糸をきれいにはかない性質があるなど課題が多いことが分かった。「二」と交雑させると、回転蔟でも糸をはき、繭重も1.5-1.8グラムと問題なかった。かたちは浅いくびれのある楕円形。「又昔」の特徴でもある光沢や染色性の良さも確認でき、呉服関係者からの反応も良かった。染色性や光沢、しわの回復力などは繭に含まれるりん脂質係数によるが「又昔×二」は通常の数倍含まれていることも分かった。  今年は高崎市内の農家に10箱(生糸60キロ分)を作ってもらい、夏にはメーカーを通じて試作品が完成する予定。品質が良ければ正式な愛称をつけて県のオリジナル品種に加える。現在、県内で飼われる蚕の40%がぐんまオリジナル蚕品種で、うち85%が「ぐんま200」、10%が「新小石丸」となっている。  「又昔×二」を育成した県蚕業試験場の町田順一主任研究員は「海外から安い製品が入ってくるなか、付加価値のある生糸が求められている。特徴のある新品種の育成で農家の収入アップにつなげ、養蚕農家の減少に何とか歯止めをかけたい」と話している。